【 vol.33 】「あっぱれ!」 イチロー選手


稲苗月、五色月、五月雨月、橘月、皐月、五月の異名です。
いつもご愛顧いただきましてありがとうございます。

20090501_1今月はWBC連覇に貢献、日本プロ野球史上通算安打一位の張本氏の三〇八五を越えたイチロー選手のお話を。愛工大名電高野球部で、イチロー選手を指導された元監督、中村豪氏が書かれたお話(致知)を読みました。

昭和六十三年、父親と一緒に監督の元へやってきたイチローは、私の顔を真剣に見つめながら「目標は甲子園ではありません。僕をプロ野球選手にして下さい」と言った。

型にはめない指導、プロ入りした選手の数が全国一、実家とグラウンドが近い、寮生活をして自立心を養い、縦社会の厳しさを学ぶなど、全て父子で熟考の末の選択だった気がする。

イチローは新人離れしたミートの巧さ、スイングの鋭さを見せ、走れば速く、投げては百三十キロ近い球を放る。一年生の秋にはレギュラーの座を獲得した。

一方父親は毎日三時半にはグラウンドへ駆けつけ逐一メモをとる。まるで監督の監督をされているようであまり気分のいいものではなかった。イチローも練習では他の選手と同じメニューをこなしていた。

そんなある日、グラウンドに幽霊が出るという噂が流れ、深夜恐る恐る見に行くと、暗がりで黙々と素振りに励むイチローの姿があった。「やらされる百発よりもやる気の一発」。これを誰に言われずとも実践し、自らの道を開拓していったのが高校時代のイチローだった。

人知れず重ね続けた努力の甲斐あって、三年生になったイチローは7割という驚異的な打者に成長した。監督の役割はチームを束ねるだけで、本人の成長は自分との闘いの中でつかんでいくしかない。

高校生活最後の県大会は決勝戦で破れ甲子園行きを逃した。抱き合って号泣しているナインを尻目に、イチローは一人応援団席に歩み寄り、ユニフォームを着れなかったたった一人の同級生に 「ごめんな」 と声をかけていた。

プロ入り後、首脳陣からバッティングフォームを変えるように指示を受け、「バッティングを変えるか二軍へ落ちるか」と迫られた彼は、自ら二軍落ちを選んだ。その苦境の中で 「振り子打法」 を完成させ、評論家から酷評されたその打法を押し通し、球界に数々の金字塔を打ち立てた。その根っ子には、人並み外れた頑固さと野球に対する一徹な姿勢があった。

イチローは、いまや世界のスーパースターになったにもかかわらず、毎年正月には私の元を訪ねてくる。その姿勢はどこまでも謙虚で驕るところがない。

人は、私がイチローを育てたというが、私は見守ったにすぎない。逆に私のほうが彼に教えられたことばかりである。

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三歳で練習を始め、小学生の頃から激しい練習をし、遂に一流のプロ野球選手になる夢を手に入れたイチロー。いささかの迷いもなく、夢を素直に信じ、本気本腰で取り組んだ。張本氏ではないが、まさに 「あっぱれ!」 ですね。

皆様の夢は?来月又お目にかかります。

(参考文献…致知)

中谷幸子